【文献】東山/京都風景論

東山/京都風景論
 

編者:加藤哲弘・中川理・並木誠士
発行所:昭和堂
発行:2006年5月15日
 
目次
はじめに
第1章 東山から考える―景観論・風景論
第2章 描かれた東山―景観史と美術史の間で
第3章 趣味世界としての東山―東山でおこなわれた茶会をめぐって
第4章 「背景」としての東山―第四回内国勧業博覧会と平安遷都千百年紀年祭を通して
第5章 守られた東山―名勝保護政策をめぐって
第6章 景観としての東山―近代における神楽岡地域の再構成
第7章 管理された東山―近代の景観意識と森林施業
第8章 東山をめぐる二つの価値観
東山の議論から見えてくること
 
 本書は、加藤哲弘・並木誠士氏らが活動している「景観?研究会」の成果について東山を主題としてまとめたものです。景観という視点から実際の風景のみならず、その風景に至る歴史やその内面にある東山の多様で豊かな様態について、美学から景観工学まで幅広い分野より議論されています。本文は「景観」という多様で曖昧な概念の定義について考察している第1章から、第2章では東山のイメージを美術史の立場から検討し、第3章では茶会を通しての近代の東山の景観を眺めていて、このように第8章まで著者らの専門的観点から東山の景観について論じる構成が続いています。各章の詳細はここでは取り上げませんが、特に、東山の森林管理に関して直接触れている第7章「管理された東山―近代の景観意識と森林施業」について少し考えてみたいと思います。
 
 日本には760万ha(国土面積の約21%)の国有林があって、現在は林野庁が管理経営を行っています。その内の約8%が京都大阪にあり、京都市のみになると全体のわずか2%となります。このわずか2%しかない京都市の国有林ですが、その多くが明治初期の「社寺上知令」によって国有林に編入された旧社寺領です。また、市内の国有林は重要な文化遺産などの背景として多くが所在しています。例えば、東山に位置する高台寺山や銀閣寺山などがそれです。北山には鞍馬山国有林が、西山には嵐山国有林があります。国際観光都市でもある京都の街並みと国有林を含む山並みを含むこの景観は、観光資源としての価値もあり、そこに他の国有林にはない特殊性が垣間見られます。
 
 一般に幕末から明治初期にかけては、全国的に森林が最も荒廃した時期だと言われています。京都でも民有林を中心に乱伐が繰り返され、そのまま植林されることなく、はげ地となった山も少なくありませんでした。明治政府の監督不行き届き、開墾の奨励、財政補填のための官林の払い下げ、土地所有権の確認に伴う森林処分の自由化、建築ブームによる木材価格の高騰、陶業など各種産業の隆盛による薪炭需要の増大などが、荒廃の原因として指摘されています。
 
 明治初期に乱伐を受けた東山は、その後どのような姿となっていったのでしょう。1884年(明治17年)から1890年(明治23年)にかけて実測された「京阪地方仮製二万分一地形図」と、当時の文献史料、後の林相調査などから、明治中期頃のおおよその植生を知ることができます。これによると、南禅寺から南の山々では、背の低いマツ主体の林が頂上から山裾付近まで山を広く覆っていて、マツのほとんどが樹高2~3m以下のアカマツであったようです。明治中期に東山を覆っていたアカマツ林は、江戸時代からのものではなくて、その樹齢から明治初期の乱伐後に成長したものであることがわかっています。このように東山の近代は、乱伐とその後に成長してきたアカマツ林の景観から始まりました。
 
 余談を少し。東京帝国大学林学科教授だった本多静六(ほんだせいろく)先生は、1897年(明治30年)に「赤松亡国論」という警告的論文を著して、アカマツ林の増加は土地の衰退を意味するものであって、このままでは日本はやがて砂漠化し、国が滅ぶと訴えました。その衝撃的な内容は、科学的に矛盾が多いものの、乱伐跡地にアカマツ林が広がる状況が、当時、京都に限らず日本全国で見られたことを示しています。本多先生は、日本の「公園の父」と呼ばれ、数多くの公園などを設計されています。東京の日比谷公園(1901年)や奈良公園、驚いたことに滋賀県の大津森林公園の設計にも携わっておられたようです。また、現在の東京大学農学部を卒業後、林学を学ぶためにドイツへ留学されています。現在のドレスデン工科大学林学部とミュンヘン大学です。ドイツでの博士号は経済学ですが、その後林学も取得されています。ドイツでどんな活動をされていたのか、かみつキッドには少し気になるところです。
 
 東山は、市街地から望む部分に社寺上知林や社寺境内林が多く、その管理は東山の景観に大きな影響を与えました。社寺上知林の大半は明治以降、国有林に編入され、1886年(明治19年)までは京都府山林掛、それ以降は農商務省によって管理されることになります。明治10年頃から国有林は禁伐主義による森林管理が展開されることになります。しかし、風致や景観に対する意識は見られるものの、こうした禁伐を中心とする森林管理は、禁伐林に指定するだけで、積極的な景観保全を意図したものではありませんでした。明治期から大正期にかけての森林管理は、乱伐の防止と国による直轄管理体制の確立が急務であって、景観整備に踏み込む段階には至っていなかったのが実情でした。
 
 積極的とは言えない国の森林管理に対して、京都内部には強い危機感があり、早い時期から様々な森林保護の動きが見られました。こうした動きで注目されるのは、府による名勝地の公園化計画です。これは名勝地を公園として位置づけることで、府が森林の管理権を掌握し、その整備を図ろうとするものでした。嵐山、清水寺などが公園の候補地としてあげられました。明治10年後半には、琵琶湖疏水工事など近代化を進めた時期にあたり、名勝地の公園化計画もまた、こうした都市整備事業の一つとして構想されました。

 1918年(大正7年)、京都市は東京市区改正条例の準用を受けて、1920年の都市計画法の施行によって都市計画の審議に本格的に着手しました。山が市街地に接近する京都では、都市計画の策定にあたって、名勝地を含む山の扱いが様々に論じられ、山地を積極的に取り組んだ京都独自の都市計画案が練られていきました。1930年(昭和5年)には、市の東部、北部、西部の山麓約1500haが風致地区に指定されます。風致地区として指定されることにより、面的かつ一体的な保護の網が掛けられるようになりました。それまでは、部分的な植林や伐採規制以外は、史跡名勝天然記念物保存法による点としての保護と、森林法の風致保安林指定による禁伐保護に限られていました。
 
 風致地区指定などに示される山に対する関心の高まりは、自然が観光資源として経済的に高い価値をもったことがその背景にありました。明治以降は海外からの観光客も増加し、大正期になるとさらに交通機関の発達などによって、一般の人々の間にも旅行や郊外レクリエーションが流行します。京都では全国で初めて観光課を設置するなど、観光を重視する姿勢を強く打ち出していきます。こうした観光資源としての自然環境整備は、同時に開発を伴うものでした。東山でも大正時代末以降は、森林を禁伐保護とする一方で、観光開発も盛んに行われました。こうした観光の流行に加えて、昭和初期には、山林や屋敷林、社寺境内林などその土地独自の景観を「郷士風景」として見直そうとする動きが全国で見られるようになります。「郷土風景」とは、そこに住む人々の働きかけによって生まれる自然風景のことを指します。自然が都市計画の中に位置づけられ、また、観光資源、郷土風景として評価されたことで、昭和初期には都市における自然をどのように扱うべきかといった議論がされるようになりました。京都においては、東山を含む市街地周辺の山が創造すべき自然景観として挙げられました。
 
 東山に都市計画や観光など様々な視点から注目が集まる一方で、実際の山は徐々にその姿を変えていきます。明治中期に東山を覆っていた低いアカマツ林は、昭和初期には人の手が入らなくなった部分から異なる樹種の林へと変化していることが指摘されます。アカマツは陽性の樹種で、乱伐の跡地や過度に森林が利用されている場所には生育しますが、大きく密に成長してしまった林では、後継樹としてアカマツは育たないことがわかっています。こうした林相の遷移は、明治期から禁伐林に編入され、古損木の除去をおこなう以外はほとんど手をつけない状態におかれた国有林で顕著でした。昭和初期の東山の林相は、まだアカマツ林が広がっていましたが、中腹以下ではすでにシイなどが侵入して、一部ではシイとマツの混交林になっていました。東山の林相が早いスピードで遷移した原因は、風致保護を理由に採られてきた禁伐主義にあります。林相の遷移を招いた禁伐主義に対する批判と、景観保護のための積極的な施業の必要は、昭和のはじめごろから学界でもしばしば取り上げられました。そしてそれは、森林施業の現場で、より現実的な問題として受け止められていくことになります。
 
 国有林の具体的な施業内容は、国の機関である営林局によって決定され、施業案説明書としてまとめられました。京都府にある国有林については、第三次検討の施業案までは原則的に禁伐という内容にとどまっていましたが、その後それを否定し、1929年(昭和4年)度の施業案では、新しい景観保護の考え方を実際の施業において実現しようとする、最初の試みが見られました。この施業案では、特に東山を取り上げています。アカマツが減少している状況を危惧して、アカマツの景観がいかに京都の背景として重要であるかを指摘し、アカマツを育てることが施業の目的とされました。具体的には市街地から見える部分は、アカマツを基調として、そのなかにカエデ、ヤマザクラの鑑賞樹やヒノキ、シイなどが混交する森林が目指され、アカマツの造林や保護を中心に計画されました。東山については、景観上特に重要であることから、嵐山とともに個別に施業計画を作成することが決定されます。それが「東山国有林風致計画」です。
 
 当初、目指された姿はアカマツを主体とする明るい林の中に、ヒノキやシイの濃緑の林が部分的に入り込むことで景観を引き締め、落葉樹が四季の変化をもたらすという景観イメージでした。しかし、1934年(昭和9年)9月の室戸台風によって東山は甚大な被害を受けます。これにより、施業計画の内容は復旧が差し当たっての目標となり、景観をコントロールするための施業については、将来の足がかりとなる指針を示すにとどまりました。しかしながら、「東山国有林風致計画」は、見る側と見られる側という市街地と東山との関係を明確にし、その関係においてふさわしいと考えられた姿を、「計画」という近代的概念を通して実現しようとしたものとして重要なものになっています。
 
 「東山国有林風致計画」を作成するにあたり大阪営林局は、行政官や有識者、東山関係者を集めて「東山風致復旧計画座談会」を開催しています。これは、災害復旧の状況を説明するとともに、今後の森林施業について意見を聞くことを目的としていました。室戸台風の被害を契機に、東山の景観をいかにすべきかという課題が、森林管理者のみならず、住民全体の問題として共有され、そのことによって、東山の存在意義、景観を維持するうえでの問題点が顕在化していきました。
 
 近代において東山は、乱伐による荒廃、アカマツの成育、そしてアカマツからシイやカシへの遷移という景観変化を経験しました。それは、近世的里山利用の終焉と管理形態の変容、風致保護の名のもとに採られた禁伐主義の結果としてもたらされたものでした。そして、人々は山の景観変化を目の当たりにして、山をもっぱら眺める対象としてとらえ、植生を人為的にコントロールしようとする風致施業計画へと辿り着きます。その過程は、東山の景観が歴史的文脈から切り離され、生活行為の投射体としての役割を失っていく過程でもありました。言い換えれば、景観が体現していたのは、東山が身体経験と乖離し、客体化していくプロセスだったのです。近代の都市計画および風致施業計画において、東山は都市の構成要素、景観要素としてとらえられ、「計画」のもとにその扱いが決定されることになります。この「計画」の概念の導入こそが近代の景観意識の基本的特徴であって、「計画」は東山と都市空間とを近代という時代が求めた関係において、再びつなぎ合わせる役割を果たしたといえるでしょう。
 
 「都市における自然は、歴史を通して人為的に操作されることで生活と結びつき、その存在が受け入れられてきた。」とは冒頭部の一文です。この東山の森林管理と景観意識の事例は、その言葉に集約されるような印象を受けます。簡単なおさらいです。東山を中心とした京都の山並みは、近代になるとまず「管理」の対象となります。これは東山の景観意識からくるものです。誰がどのようにしたら山並みを合理的に維持していけるのかということが課題となりました。そして、その後に「計画」の対象ともなります。公園都市として位置づけられた京都は、山並みも都市計画の対象とされました。こうして近代社会は、それまでの街の「背景」としてあった東山に街と同格の価値を与えていきました。これによって、東山は遠くに眺めるだけの存在ではなくなり、国や地方政治の政策対象となりました。それは同時に、東山の風景に「美しさ」という限定的な価値を与えることも意味していました。まさに風景や景観という概念から豊かな意味が失われていく過程を象徴しているようです。東山の森林管理の歴史から伺える景観意識の変遷は、景観という概念の根拠それ自体の変容を意味していると考えられるでしょう。
 
 しかし、こうした景観意識が実際の東山を大きく変えることはありませんでした。柳田國男は、他の地方に成育する樹木を、自分の住む村に移植しようとして失敗した経験をもとに次のように述べています。「土地と樹木との因縁は、われわれなどよりもずっと深く根強く、したがってまたゆっくりとしている。それをぜひとも見とどけなければならぬように、自ら義務づけることが物知らずであった。」最後に、著者は柳田國男のこの言葉を引用してこう締めくくっています。「生活行為がつくる景観と、計画によってつくることが可能な景観との差異を、近代の時間意識の限界を指摘しつつ示したものとして、近代の東山におこったできごとに対して示唆的である。」
 
ここで記載している内容は、そのほとんどが著者の文章をお借りしています。
 
 かみつキッドは2011年の夏に一ヶ月程度ですが、林野庁の出先機関である京都大阪森林管理事務所でインターンシップ生として研修をしました。その時、所長に読むことを薦められたのがこの本でした。ほぼ毎日国有林の現場を歩いてまわりましたが、現場を見たからこそわかることがあるものです。この研修の詳細は別ページに書くことにします。
  
参考文献
田中和博編:古都の森を守り活かすーモデルフォレスト京都―, 京都大学学術出版会, (2008)
大阪営林局:東山国有林風致計書, (1936)
東山/京都風景論, 加藤哲弘ほか, 昭和堂, (2006)
 

5 thoughts on “【文献】東山/京都風景論

  1. 今まで全く森林に対しての管理してるっていう考え方が無かったな。主旨とは違うかもしれないけど。
    アカマツはアカマツそれ自体が国土を荒廃させてしまうの?(例えば水を涵養できないとか?)
    それともアカマツそれ自体が悪いって言うよりは、アカマツを植える事になるまでの過程(乱伐を経て)や植えた後が問題になってたって事?
    良く分からん事言うてたらすんません。

    1. okaza
       
      アカマツはもともと栄養の少ない土地に生える植物だから、低い山の尾根とか限られた場所にしかなかったみたい。
      だけどこの時代に人が乱伐や過度に利用して一部の森林がやせて、本来アカマツが優勢にならないところでもアカマツ主体の林なったねん。
      それに気づいた本多先生は、「日本国土にこれほどアカマツが多いということは、山野の土壌がやせて生産性が落ちていることを示しているのだから、このままでは国が滅ぶぞ」と注意したみたいですね。
      つまり、アカマツは土地がやせたところにある→アカマツ林が広がる→つまりそこの土地はやせてる→土地がやせてるということは生産性の悪い土壌ばっかり→やばい、国が滅ぶ ということじゃない。
      この矢印にはちょっと無理があるけど。

      アカマツが悪いんじゃなくて、アカマツという樹木を媒体として国土の荒廃を表現しているのかな。

      1. なるほどな~。
        戦前、もっと昔から、この国の自然への思いがあった事が何だかうれしいです。チュニジア南部にいると、自然(森林って意味だけで無くて)への考え方の違いを感じるけど、それは近代化してるとかどうとかだけじゃなくて、昔からの文化なんやね、きっと。
        と、あってるのか分からんけど妄想してる。

        1. チュニジアには自然に対する違う価値観があるんじゃない?
          なんかないかな?
          砂とか土に関係する文化とか。

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